甘め物語集 ホワイトチョコレート

どちらかというと、デザイン上の資料として。物語付き。できるだけ甘い物語がいいけれど、どうなるか…。

もしも好きならば「同じ」であるはず?

自分と他人が違う、というのは難しいなあ、と思います。

 

同じなら、いろいろ楽だけれど。違うので、説明と理解を求める必要があり、説明しても理解されないこともあり…。どれほど「この人は自分と違う」と思っていても、「同じであること」を望んでしまうと、祖語はおきやすいですね。

 

人に愛されることが、自分の価値になると、もしも愛されないなら価値がない、ということになり、ますます問題が深くなります。仮に相手が、「愛している」としても、愛の表現方法が、自分と違うと「愛されていない」証拠になってしまうのです。「私なら」という言葉を言っている時、「相手は私ではない」という認識が、抜け落ちている状態です。たとえば「私なら」スキンシップするのに、という場合、もしそれがなくても相手は愛している可能性がある。だけど、スキンシップが愛情の証拠なら、それがないと愛を感じられないのです。それを変えるのは、かなりの苦痛を伴います。

 

特に家族だと、「同じ」であることを要求しがち(その方が快適だから)なので、このような問題がおきがちです。実は家族、親子でありながら、その性質などは異星人ほどに違うのですが、そのような違いがあるのを認識している場合は、けっこう少ない。認識だけでなく、認めて受け入れるのは、さらに難易度が高く、普通は、ある時点で、離れるか、「同じである」よう振る舞うか、あきらめるパターンが多いような気がします。また恋愛、結婚などをすると、子どもやきょうだいの中の自分の優先順位が、一位から次点になり、その変化が受け入れられない、という場合もあります。もしも私がこれだけ愛したら、愛を返すのに、と思う気持ちが、「別な人間に愛を返された」時、恨みに変化するのは自然なことです。ただ、その場合、「こういう件でお前を恨んでいる」と認識している場合は少なく、「恨んでいる」と直接言う場合はもっと少なくなります。人は、自分をいい人間だと思いたいものだからです。

 

もしも永遠に側にいて、永遠に愛されていて、という状態を「人間」に求めるなら、おそらくどこかの段階で、「限界」を知ることになると思います。「人間」である以上、愛の表現方法も、時間による変化なども含め、いずれかの段階で、「同じ」ではなく、「あの愛をもう一度」というのは不可能なのです。もしも側にいて、愛され、「同じ」である存在があるならば、それは「自分」以外になく、やはり自分で自分を愛する、というのが一番、確実な方法なのでしょう。それでも、やはり「他人」に愛されることは、人の根本的な願いなので、星や月に手をのばすように、おそらく手をのばしつづけるのだろうな、と思います。